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CROSS WIZARDZさん
ブロンズレビュア
Update:2009/6/19
得票数:18
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CROSS WIZARDZさんに一票!
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題名レビュー星の数
パットン大戦車軍団パットン、パットン。100パーセント、パットン。まさしくパットンと心中する覚悟の映画。「パットンは人間的に面白くないな」と感じたら最後。何故なら、パットンの話だから。個人的にパットンは人間的に面白くないという事はないけれど、取り分け面白いという程でもないなという煮え切らない感情しか沸かなかったのでこの点数。★★
史上最大の作戦戦場を舞台にした群像劇を、当時として、しかも、ドイツ側の視点も画面に載せながら、それぞれが母国語を話すという状態で呈示したのは、やはり画期的だと思う。が、双方の視点を載せながらも、その虚虚実実を濃密に描いているわけでもないし、尺もかなり長いので、若干、冗長を感じなくも無い。それは、セミ・ドキュメンタリーを銘打っているが故のリアリズムなのかもしれないが、映画的な魅力に満ち溢れた作品とは言い難い。★★
華氏911個人的に映画としてこの作品をどう評価するべきなのかは分からない。ただ、重要なのはここにある事実は線ではなく点であると言う事であり、点と点の間を憶測で結んでいるという点。coincidentalとsuspiciousを混同するのは危険だと思う。ただ、盲目的にauthorityの言う事を鵜呑みにするのではなく、常に疑惑の目を失わないという事はジャーナリストとして重要だと思うし、そういう精神にこそ本作の存在意義があると思う。
白いカラス白い肌の黒人というモチーフ自体興味深いし、そういうテーマから派生する問題の根深さも痛感させられるのだが、しかし、このコールマンなる人物の人間性には共感できない。R・ベントンの文学気取りの生ぬるい演出もどうだろう。とりわけ、シニーズ、キッドマン、更に、フラッシュバックでも披露したダンスシーンのしつこさ。「汚名」のバーグマンがそうであったように、このキッドマンもはまり役だとは到底思えない。
ミニミニ大作戦微風で吹っ飛びそうなくらいに重量感のない作品。目の死んでいる無気力ノートン、或いは、主役として圧倒的に華が無いウォールバーグ。一見豪華そうに見えたキャストもふたを開けてみると悲しい位に生気が無い。結局、序盤で果てたドナルド・サザーランドの存在感を上回ったのは、街中を縦横無尽に疾走するミニ・クーパーだけだった。
スクール・オブ・ロック勢いは認めるが、果たしてそれ以外に何があるというのか。こういうはみ出し先生ものは、行き着く先が常に同じなためどうしても予定調和になってしまう。たとえ、そこにロックというエッセンスが加えられていてもだ。ジャック・ブラックの面白さ、そして、ジョーン・キューザックの複雑性の素晴らしさは認めるが。
マスター・アンド・コマンダーこの原作を映画化するのはどうだろう。というのが偽らざる本音。美術の拘りは認めるけれど、それこそ、価値があると分かっていても美術館で眠たくなるような、そういう不条理に襲われる。起伏の無い、まるでエンドレスのようなストーリーと、あの聞き難いイギリス訛とオージー訛りのミックスジュース、正直、ガラパゴス諸島の美しさだけが心の拠り所。また、二番手がポール・ベタニーであるという華の無さもあまりに痛すぎる。
ラブ・アクチュアリー巧くまとまってはいるが、まとまっているからこそ展開にうなりが無い。こういった群像劇は、パラレルに進行する話が「絡み合う瞬間」が勝負なのに、個々の話を綺麗に収束させようとしすぎる余り絡み合う瞬間にうねりがない。それならば、同時進行させる意味が無い。この映画は、綺麗好き、或いは、潔癖症すぎる。綺麗に縦に伸びた糸を絡めようとはしない。汚く、泥臭く糸がグチャグチャに絡み合う瞬間こそ群像劇に至極なのに。
トゥームレイダー2幾らなんでもこれは酷すぎやしないか。腐ってもヤン・デ・ボン、ストーリーの稚拙さをものともしない圧倒的アクション・シークエンスを見せてくれると期待したが、全く以っての弛緩ぶり。アンジーがどうとか言う以前の問題だ。これは、断じてデ・ボンが悪い。無論、脚本も悪い。
チャーリーズ・エンジェル フルスロットル前作にあったグルーヴ感が減退し、仮装大賞色が一層濃くなってしまった二作目。しかも、欽ちゃん(ビル・マーレイ)無き仮装大賞なものだから収拾が付かなくなっている。
ラスト サムライ「武士道」を掘り下げるというよりも、崩壊しようとする旧価値観と、台頭してきた新価値観の相克を描いた映画なのだろう。そういう意味では普遍性があるし、だからこそに日本である必然性も無い。また、旧時代へのセンチメンタリズムを描くには、日本文化の咀嚼が圧倒的に足りない。土下座、忍者、ハラキリ、桜吹雪。日本人キャストの演技の抑揚の無さも痛切。表情、所作がハリウッドレベルに達して無い。
レッド・ドラゴンバッファロー・ビルとレクターの間にあった「相克」を経て昇華するという映画的な力関係が、この映画のレクターとダラハイドの間にはなく、単なる「相殺」になってしまっている。これが最大のマイナス点。レイフ・ファインズでは、どうしてもキャラが立ちすぎる。エミリー・ワトソン、ハーヴェイ・カイテルが脇にいるのも作品としての焦点がぼやけた要因。完全にノートンの存在感が侵食されている。
ロード・トゥ・パーディション端正な画だが中身はゼロ。数学的なバランスのシンメトリーな構図は、キューブリックに対するオマージュか何なのか。ロングショットのタイミングや、消音による聞かせない演出、J・ロウ登場カットでのドリーしながらのズームなど、余りに図式的で興ざめ。ハンクス、ロウ遭遇シーンの「汗」の演出は悪くないが、全体として完全に二作目のジンクスに陥っている。
バースデイ・ガールニコールを引っ張り出してまでやる映画だろうか。意外なタイミングで小作品に出るのも、大女優の懐の深さなのだろうけど、こういうセンスに欠ける本を選んでしまう所に、ニコールの鑑識眼の甘さを感じる。ニコールはオージー訛だから、ロシア人らしい英語の拙さは上手く表現されているけれど、やはり物語が浅い。一体どういう企みなのかという謎めいた語り口の前半は悪くないけれど、真相が明るみにでると途端に面白くなくなる。
ジョンQ 最後の決断どんなに崇高なテーマがあっても、病院を占拠するという暴力の論理は生理的に受け入れらない。たとえ、そこに子供を救うという神聖不可侵なエッセンスが利いていてもだ。
タイムマシン時間移動をあのような映像で見せた所が今作のアイデンティティであり唯一の見所か。タイムマシンがある割りに一つの時代に固執した展開が勿体無い。エマを諦める辺りの精神描写も浅く、唐突という印象も拭えない。「何万年もの未来があれなのか」という違和感も終始付きまとう。我々がタイムマシンという設定で想像する展開とは、だいぶずれた展開がそこにある。
BLOW DRY シャンプー台のむこうに幾らなんでもコテコテすぎる。敵役のB・ナイやヒロインのR・リー・クック、A・リックマンの頑固親父など映画文法の基本すぎて、複雑性求む観客には面白みに欠ける。ヘアドレッサー選手権という舞台設定が今までに無い(かどうかは分からないが)アイデアなのかもしれないが、選手権だけを取れば映画的に目新しい選手権は幾らでもあるのだろうし、そういうワンアイデアだけで後はプレーンにという作り方が好きになれない。
ウインドトーカーズ日本に対しても、米国に対しても義理の無いジョン・ウーならば、戦争をおもちゃに徹底してアクションしても良かったと思うのだが、変にインディアンの肩を持ったりするから鼻につく。そういう人種的複雑性を描ける監督ではないだろうに。
バイオハザード面白いシーンなどもあるが、至って平板。そもそもゲーム自体もストーリーがあってないようなものなのだから、そこから広げても限界があるだろう。この映画は物語に不相応なスケールを持ち込んだので、世界観が非常に希薄で薄っぺらな出来になってしまった感がある。
アッと驚く真実を呈示しえなかった時点でこの映画の負け。ゾーラが善か悪かの二択では全然面白くない。もっとそれさえもひっくり返す何かが欲しい。「シックスセンス」、「ユージュアル」を経験した我々には圧倒的に物足りない。苛々する位まで引っ張る話ではない。エンベスは流石に巧いが、ゾーラの演技が柔軟性に欠ける。まだ、当時として駆け出しのキーラ・ナイトレイの方が魅力ある演技をしている。
アイ・アム・サム設定から予想できるであろう範囲の中で進む、極めて予定調和な作品。確かに主人公の可哀相な境遇には同情のような感情は沸く。しかしながら、その誰もが沸くであろう感情に頼ってる所の脆弱さも見て取れる。いや、もっと突き詰めれば「可哀相」を盾に高評価を強要しているかのような狡猾さも感じられる。障害者を食い物にしているとはまさにこういう事を言うのだ。
バンディッツこれは随分弛緩したフィルムだ。それは、コメディ的な要素が空気を弛緩しているというのではなく、描かれている人の「意識」が弛緩しているのだ。それは、役者云々ではなく、この題材を映画のフォーマットに落し込む際の脚本の描き方の稚拙さ。ウィルスとビリー・ボブの掛け合いがあれほどまでに素晴らしいのに、ひとたび、ケイトが絡むと途端に空気が弛緩するだ。
デンジャラス・ビューティー厳しい。かなり厳しい出来だ。まず、全盛期のサンドラならいざ知らず(「スピード」直後)、賞味期限が切れているサンドラがやるべき役柄では断じて無い。賞味期限が切れるという事は、女優として新たな役柄に挑戦できるチャンスでもあると思うのだが、未だに昔と同じ役柄を演じている。メグ・ライアンが辿ったデカダンスへの道を、今、サンドラが歩いている。
ハイ・フィデリティ所謂、アレン作品のような「映画的いい加減」を追求しているのだろうが、残念ながら脚本が「いい加減」になり切れて無い。がり勉が黒ぶちメガネのままヒップホップ系ファッションも身にまとっているような違和感が終始付きまとう。だからこそ、幾らジョン・キューザックがカメラに語りかけても「アニー・ホール」にはなれないのだ。
オータム・イン・ニューヨークこれは酷い。涙が出るほど酷い。素人が見てもその稚拙さは明白だ。稀代の駄作。環境ビデオか何かと勘違いしている。しかも、ニューヨークらしさを捉えてないという悲しさ。キャスティングも酷い。ギアのニヤケ顔に、ウィノナのやっつけ感。シリアスな演技でも、カットの後大笑いしているに違いないと感じさせる圧倒的「弛緩」。ラジー賞さえ勿体無いと感じさせる恐ろしき駄作。
バトルフィールド・アース原始的なものと近未来的なものがミックスされた独特の空間造型は悪くないのだが、肝心の近未来的なものが少々古臭い。「第三の男」的なカメラを傾けた構図が食傷気味に多い。「投げやり」的に作品レベルが低いのではないので観ていて怒りのようなものはこみ上げてこないが、やる気満々で作品レベルが低いというのが、それこそ幸の薄そうなバリー・ペッパーの孤軍奮闘とオーバーラップして何とも切なくなる。
ザ・ダイバーストーリー自体は良いのだろうが、演出や脚本といった見せる部分での力不足を感じる作品。とにかく駆け足の展開が気になる。長尺で無いにもかかわらず、幼少期から描くのは少々無理があるのではないだろうか。この辺の強引な詰め込みが、雑な人物描写へ繋がり、肝心のデ・ニーロとの友情も唐突という印象を受けてしまう。じっくり丁寧に描いてくれれば、感動も共感も出来たと思うのだが。何とも残念な作品である。
誘拐犯監督としての才能がゼロなのは、仕様がないとしても、脚本がこれでは、どうにも救いようが無い。名監督の作品がひしめく昨今、こんな初心者監督の稚拙な演出を絶賛できる程、映画界は甘くない。
シャフト全然、セリフが生きていない。無論、Gangsta rapのような言葉の「うねり」は期待していないが、それでも「トレーニング デイ」なんかに比べても、全然セリフが優等生している。こんなセリフでは乗れないし、クールではない。この脚本家たちが紡ぎだす言葉は、「黒いジャガー」の頃の住人だ。古い。古臭すぎる。
リトル・ダンサー炭鉱夫、ストという使い古されたイギリス映画の設定がここでも登場。しかしながら、そんなテーマの陳腐さよりも、主人公の少年のクールを気取ったふてぶてしさが本作を肯定的に評価できない最大の要因。あの面接におけるふてぶてしい態度は、怒りを通り越して、その協調性の無さに憐憫さえ覚えた。にもかかわらずあっさり合格。天才のエゴがまかり通る世の中を描きたかったのか。あそこは、あの少年に、ガツンと言わせるべきだ。
ファイナル・デスティネーションむしろ、コメディーであると割り切って提示した方が映えるのではと感じさせる程の荒唐無稽を、序盤はリアリズムを十二分に利かして提示する。この辺のバランス感は危ういながらも中々良かったが、そのバランス感が崩壊した後の世界観のあまりに安っぽさに、トータルとして世界観を統一出来なかった作り手の稚拙さを感じずにはいられない。学園ドラマレベルのリアリズムさえ維持できない悲しき作品。
ザ・ビーチ
グリーンマイル偉大な兄を持つ弟の厳しさ。腹違いの「マジェスティック」ならいざ知らず、同じダラボン、キングから生まれた子としては、やはり物足りない。また、再びキング原作を選ぶダラボンの露骨な狙いも状況を更に厳しくしている。「ショーシャンク・・」と比較される事を選んだのは他ならぬダラボンなのだから、「ショーシャンク・・」と比較され断罪されるのも仕方の無い事だろう。私ならダラボンにUltimatumを突きつける。
ジャッカル真顔のコメディ。そう割り切れると中々楽しめるが、観客にそんな余裕は無いだろう。ギアのニヤケ顔が元IRAという時点で大爆笑だが、ウィリスの間抜け顔がジャッカルだという事実には敵うまい。ポワチエの真摯な演技が辛うじてシリアスを捻出するが、ギアの胡散臭いアイルランド訛や、ウィルスの変装がこの映画をグイグイとコメディサイドへ引き寄せる。
評決のとき殆ど意味の無いエレンという役に主役級のサンドラを配するという愚行に始まり、悲壮感の欠片も無いサミュエル、そして何処までも締まりの無いマコノヒー。無駄に豪華なキャスティング。「100億ドル以上の興業収入を上げた作品でのワースト脚本賞」という奇妙なラジー賞にノミネートされた脚本も、ノミネートに違わぬお粗末ぶり。陪審員の心情まで描写してしまった無駄な貪欲さや、結局、情に訴えるという拍子抜けのラストなど。
トレマーズ確かに目の付け所は悪くないし、offbeat感覚もまずまずだ。しかし、どう贔屓目に見たってこの作品が映画的に突出しているとは言えないだろう。何となく珍しい模様の石ころを見つけたようなもの。所詮は石ころであり、ダイアでも真珠でもない。B級として無条件にゴミ箱に捨てられないだけの魅力があるだけ。それ以上でもそれ以下でもない。こういう作品を過度にDeifyするのは映画産業をだめにしてしまう。
インディ・ジョーンズ 最後の聖戦三部作における三作目は、映画人にとって真価の問われるものだ。それは、振り向かずに前だけを見て「生み出す」ことを追求するには、あまりに誘惑が多いからだ。誘惑の源泉はシリーズの遺産に他ならない。「魔宮の伝説」における一作目からの連関は皆無に等しかったわけだが、本作は、冒頭の過去の記憶といい、一作目以来のD・エリオットといい、振り返ってばかりの「後ろ向き」の映画だ。同一テーマによる物語の残滓。
エレファント・マン「イレイザーヘッド」から何の成長も見て取れない、全く以ってこのリンチには失望させられる。物語もコンベンショノで演出も構図もコンベンショノ。「砂の惑星」で自らの毒性に晒すようになり、「ブルーベルベット」で強烈な作家性が結実するわけだが、本作までのリンチは物語の傍観者でしかない。内面に入り込み、そのコアの抉り出し呈示するリンチではない。だからこそこの映画は、圧倒的に無表情なのだ。
時計じかけのオレンジ映画にモラルを求めている訳ではないし、聖人君子ばかり描けなどとも言わないが、この主人公の悪行は幾らなんでも身に余る。序盤でアウト。強盗に入った際のあの描写でこの映画は終わりだ。取り返しのつかない悪行を描いてしまっている。例えて言うならば、重症を負った人間を助けずにカメラを回し続けているかのようなImmorality.
暗くなるまで待ってオードリーの致命的なほどのArtficialityと、同時にSubtletyの無さ。彼女の存在感に驚愕した事はあっても、彼女の演技に感心させられる事は一度も無い。何故なら彼女は人形であり役者ではなかったからだ。年を増す毎に化けの皮が剥がれて行く。キャサリン・ヘプバーンが年を増す毎に魅力的になり、また多くのオスカーを手にしたのとはまさに正反対。その辺が役者としての力の、魅力の差だろう。
シャレード何と弛緩した映画か。ヘプバーンのお遊びに皆付き合わされたという類の弛緩。グラント、マッソー、ジョージ・ケネディにコバーン。これだけの曲者を揃えながら、直球ばかり投げるドーネンのつまらなさ。ヘプバーンのための直球なのは分かるが、このメンバーならば変化球勝負だろう。
アラバマ物語
アラビアのロレンスフィルムを消費する消費する。D・リーンの商業も芸術も超えた「待ちの美学」が濃密なまでに息づいていのは認めるが、それこそ幾ら待合室を快適にしても待ち時間が快適にならないのと同様に、我々は本質的に待ちたくないのだ。オマー・シャリフ登場シーンの反則ギリギリの「待ち」なんかは、「登場まで何分」というテロップを出すべきだ。或いは、「待たせてごめんね」くらいの一言があってもいいはずだ。
麗しのサブリナこのワイルダーは役者負けしている。それは、取りも直さずボギーを掌握し切れていないが故だ。ボギーのカサブランカ・アプローチをワイルダーのフォーマットに落とし込んでも機能しない。それは、ワイルダー作劇の歩んだ道がボギーの歩んできた道と正反対だからだ。それを、上手くケミストリーさせる力技はワイルダーにはないし、ワイルダーにそのような力技は必要ない。ワイルダー唯一の失態。ボギーはここにいるべきではない。
素晴らしき哉、人生!所詮は金貸しの苦労話。事業が上手くいかなくなったら、子供や妻に当り散らすし、持っている時は成金の如く金をばら撒く。善意と金を繋げた俗っぽいプロットにどうも違和感。それでも父親を心配する子供達の暖かさに感動するというもの。酒場でジミーを殴った男の方がよっぽど理にかなった事を言っている。そして、事情も知らないのにベイリーに肩入れする者達。まるで、盲目的にベイリーを崇拝する新興宗教の狂信者のようだ。

Fayreal

Cinema Review Ver 3.0
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